ハーレーヒストリー…と謎のマダム

ハーレーヒストリー…と謎のマダム

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予報通り、本日もオフ。ひとこと、ジャンク。アウトオブコントロール。

写真は謎のマダムと資産運用の相談をするボブ・ハーレー。ミスターハーレーその人……な~んて。謎のマダムは私ですが、話は資産運用ではありません。マダムの資産マイナスだから。今思えば最後になってしまった今年のトラッスルズ、ハーレープロでのワンショット。毎年少なくとも1回はボブとこうしてちょっと話したりする大赤字マダム。もう20年来の知り合いなんで。

ボブはサーフジャンキーともいえる70年代のサーファーで、サーフィン好きが高じてシェイパーに。いくつかのサーフボードブランドで経験を積んだのちにハーレーサーフボードを開業。1983年に当時の仲間たちとビラボンUSAの全米ディストリビューターとなる。もともとハーレーサーフボードで広がっていたマーケットを全米規模に広げ、オーストラリアのブランドだったビラボンを全米に浸透させた。当時のビラボンはマーケティングだけではなく、すでにUSA独自の生産ラインも持っていたほど、大きなビジネスになっていた。しかしある年、ビラボン本社が来季の販売ノルマを大幅にアップ。ま、これはアメリカだけに対して行われたものではないのだが、それは到底ボブたちに受け入れられるノルマの金額ではなかった。そこでハーレーサーフボード創業当時からの仲間たちとさんざん悩んだ挙句、ビラボンを離れ、独自のブランドを立ち上げることを決意した。1990年、ハーレーインターナショナルの誕生だ。
このビラボン、ハーレー問題は当時業界のビッグニュースで、あることないこと、様々なゴシップが付きまとって、その真っただ中にいたメディアとしては、結構楽しませてもらった。

ビラボンUSAからボブ・ハーレーが抜けて新しいブランドを起こす、ということならそんなに大きな話題ではなかったんだろうけど、問題だったのは、当時のビラボンにいたセールスレップやデザイナーなどのブランドを維持するための要となる人材のほとんどが、そのままハーレーに移籍したことだった。この時、当時のビラボンUSAの人にとっては、どっちに行くかは大きな決断だったし、賭けだった。安定した古い船に残るもの、未知の新しい船に乗り換えるもの、人によって、立場によって判断はまちまちだったが、結果的にビラボンUSAを維持してきた中枢人物はほとんどハーレー号に乗り換えた。普通なら、新造船で荒海に乗り出したハーレーを心配するところだが、当時はビラボンUSAの打撃のほうが声高に語られていた。同時に、いくら人材と販売ルートが確立されていても、有名デザイナーでもない人の名前のブランドの服なんて誰が着るの? というのはほとんどの人の印象だったし、アメリカでハーレーがビラボンを上回ることはないだろう、と考えられていた。
しかし、マーケティング力というのはブランドの浸透に大きく影響する。有能な、ビラボンを全米に広めた営業スタッフたちの手によって、全米のサーフショップを通じてハーレーは徐々にサーファーたちの中に浸透していったし、ビラボンから移籍したデザイナーや生産ラインをうまく使ってハーレー独自のラインを打ち出していくと同時に、ロブ・マチャドやパット・オコーネルなどの個性のあるサーファーばかりでなく、ミュージックシーンやアートカルチャーなどの幅広いシーンにマーケットを広げ、ちょっと大人のイメージを定着させていく。 ……つづく。

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